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元治元年9月30日(1864年10月25日)
【岩国】筑前藩士喜多岡勇平及び薩摩藩士高崎五六、岩国到着。
高崎、
薩摩藩は長州と「私怨」はなく、雄藩連合による皇国挽回のためにも、是非恭順周旋に尽力したいと申し入れる
(他藩と違って本気ともアピール)

◆9/27【天狗諸生】 常野追討軍総括田沼意尊、水戸藩主徳川慶篤名代松平頼徳・元水戸藩家老鳥居瀬兵衛・同大久保甚五左衛門等を水戸に召喚し、下市町会所に投じる
◆9/28老中、征長軍進発を促す/小松帯刀着坂
◆9/29【長州の内訌】奇兵隊、書を藩主毛利敬親に上り、藩内の武備を充実して割拠の勢を持し、会津・薩摩二藩排除の策を講じ、三家老を救解せんことを請う。(以上、綱要)


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■諸藩の長州恭順周旋(筑前藩&薩摩藩)
【岩国】元治1年9月30日、筑前藩士喜多岡勇平及び薩摩藩士高崎兵部(五六)が、長州支族・岩国領主吉川経幹(監物)及び長州藩の恭順周旋に関する真意を確かめるために、京都から岩国新湊に到着しました。高崎は「朝稲兵助」変名。

喜多岡・高崎の両名は前24日に京都を出立していました(こちら)。喜多岡は上京途上に岩国に寄って、恭順周旋を促していました。今回の岩国行は帰国途中に薩摩藩による周旋を勧めることが目的です。そこで、まず喜多岡が岩国に入って(領主監物が山口に出張って留守なので)吉川家家臣家士香川諒に会い、上京後の事情と薩摩藩士の高崎を同行してきたことを伝えました(その際、薩摩藩は京都での評判もよく、薩摩の意見は近衛家を通して何でも通る等、薩摩藩を猛烈に推薦)。香川は横道八郎次と新湊に向かい、高崎の話をきくことになりました。

高崎は、禁門の変は藩主父子の本意ではなく、出先の面々が暴発しただけなので、天下のためにも、是非、薩摩藩が周旋をしたいと猛烈にアピールしました。

たとえば、長州藩との間には「私怨」はなく、禁門の変では御所守衛のためにやむなく戦ったただけで、捕虜も丁重に扱っている、残忍で人望のない会津は今後の協力相手だと考えていない、幕府は衰えており、大藩が手を組んで皇国の衰運を挽回する必要がある、他藩と違って薩摩藩は本気で周旋する、など。


(高崎の発言内容のてきとう訳)
吉川監物の「正義」をどこまでも貫徹し、これまで苦心してきたことは、喜多岡から承っている。宗家(長州藩)の件(=禁門の変)は、藩主父子の趣意ではなく、出先の面々の暴発から朝敵の名を負い、終に征長の御沙汰になったが、悔悟の様子がみえるので、長州藩のためだけではなく、天下の為に、手をこまねいて傍観するわけにはいかない。内乱になっては「醜夷」の術中に陥るだけであり、なんとか周旋したいと、京都詰めの主だった役人共と会議の上、決定した。当地に出向き、監物の趣意・長州藩の様子等を確認して取り掛かりたいということで、自分がやってきた。

長州藩と薩摩藩は「互ニ私怨」があるように世上では専ら唱えているが、全く持ってそのようなことはない。兼てから攘夷には「御同意」で、ただ、薩摩藩は「急速」な攘夷はできないとの国論で、長州藩は「速ニ掃攘」という国論という、「緩急之違」いがあるだけである。(長州が)薩摩藩の船に発砲した件は、その際に使者を派遣されたので、遺恨はない。禁門の変の際も、もとより敵対する理由はなかったが、御所に守衛兵を出しているので、防御せぬわけにはいかず、「無余議」剣を交えたもので(え?)、捕縛した者も、念入りに保護している次第で、御所以外には兵は出していない(え?)。会津などは捕縛した者の「頭上に大釘を打込」むなど「残忍刻薄」で「大ニ人望を失」う処置のみが多く(こちら)、「共ニ計るに不足」である。薩摩が捕縛した者は、いずれは御返しすることもあるだろうから、帰国すれば彼らからも「私怨」のない点を「氷解」できるはずである。幕府も近来は衰え、「覇者之処置」がなく、外国艦が迫る中、せめて「大藩たけなりとも手をつなき合」わせなくては「皇国之衰運」を招きかねないので、是非周旋をしたい。薩摩藩は「脇藩之如き名聞」のみの周旋はしない。

また、高崎が、山口に出かけて留守の監物から、せめて書状でも預かり、それを証拠に周旋したいというので、翌10月1日、香川らは監物に事情を説明するため山口に向かいました。(監物は、10月2日、高崎に対して周旋を依頼する書を認めました。ちなみに、喜多岡はそれを確認すると、本国に帰り、復命しました)

<ヒロ>
高崎の今回の訪問は、薩摩藩を周旋相手として認めさせるためで、それは、長州と手を組んでの雄藩連合が視野にあったんですね(吉川家を説得するための発言なので、どこまで本気かはわかりませんが)。他藩ではなくて薩摩藩を頼るべきだというのも、薩摩が長州に恩を売り、征長後の状況でイニシアティブをとりたいからに他ならないですよね。

それにしても、いくら吉川家を取り込むためとはいえ、よくいうな〜って感じです。そもそも長州が京都を追われることになった禁門の政変を会津藩にもちかけたのは薩摩藩。そして、禁門の変も、当初は、様子見だったものの、長州を借り尽くすと決意し、長州追討の朝命を出すように猛烈に働きかけたし、戦果を誇り、焼き討ちだってしていたというのに・・・。そして、さりげなく、長州の仇敵・会津藩を落として、自分たちは会津と違うアピール。捕虜を丁寧に扱っていたのも、こういうことに利用するためだったのなら、先を読んでますね。禁門の変直後、勝海舟が、「薩は形勢を明察し、機会に乗ずる、天下第一」といってたのは本当だな〜とつくづく思います。

参考:「吉川経幹周旋記」(綱要DB 9月30日条 No100-104)(2018/9/2)

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