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◆9/27【天狗諸生】 常野追討軍総括田沼意尊、水戸藩主徳川慶篤名代松平頼徳・元水戸藩家老鳥居瀬兵衛・同大久保甚五左衛門等を水戸に召喚し、下市町会所に投じる ◆9/28老中、征長軍進発を促す/小松帯刀着坂 ◆9/29【長州の内訌】奇兵隊、書を藩主毛利敬親に上り、藩内の武備を充実して割拠の勢を持し、会津・薩摩二藩排除の策を講じ、三家老を救解せんことを請う。(以上、綱要) >第1次幕長戦へ ■諸藩の長州恭順周旋(筑前藩&薩摩藩) 【岩国】元治1年9月30日、筑前藩士喜多岡勇平及び薩摩藩士高崎兵部(五六)が、長州支族・岩国領主吉川経幹(監物)及び長州藩の恭順周旋に関する真意を確かめるために、京都から岩国新湊に到着しました。高崎は「朝稲兵助」変名。 喜多岡・高崎の両名は前24日に京都を出立していました(こちら)。喜多岡は上京途上に岩国に寄って、恭順周旋を促していました。今回の岩国行は帰国途中に薩摩藩による周旋を勧めることが目的です。そこで、まず喜多岡が岩国に入って(領主監物が山口に出張って留守なので)吉川家家臣家士香川諒に会い、上京後の事情と薩摩藩士の高崎を同行してきたことを伝えました(その際、薩摩藩は京都での評判もよく、薩摩の意見は近衛家を通して何でも通る等、薩摩藩を猛烈に推薦)。香川は横道八郎次と新湊に向かい、高崎の話をきくことになりました。 高崎は、禁門の変は藩主父子の本意ではなく、出先の面々が暴発しただけなので、天下のためにも、是非、薩摩藩が周旋をしたいと猛烈にアピールしました。 たとえば、長州藩との間には「私怨」はなく、禁門の変では御所守衛のためにやむなく戦ったただけで、捕虜も丁重に扱っている、残忍で人望のない会津は今後の協力相手だと考えていない、幕府は衰えており、大藩が手を組んで皇国の衰運を挽回する必要がある、他藩と違って薩摩藩は本気で周旋する、など。 (高崎の発言内容のてきとう訳)
また、高崎が、山口に出かけて留守の監物から、せめて書状でも預かり、それを証拠に周旋したいというので、翌10月1日、香川らは監物に事情を説明するため山口に向かいました。(監物は、10月2日、高崎に対して周旋を依頼する書を認めました。ちなみに、喜多岡はそれを確認すると、本国に帰り、復命しました) <ヒロ> 高崎の今回の訪問は、薩摩藩を周旋相手として認めさせるためで、それは、長州と手を組んでの雄藩連合が視野にあったんですね(吉川家を説得するための発言なので、どこまで本気かはわかりませんが)。他藩ではなくて薩摩藩を頼るべきだというのも、薩摩が長州に恩を売り、征長後の状況でイニシアティブをとりたいからに他ならないですよね。 それにしても、いくら吉川家を取り込むためとはいえ、よくいうな〜って感じです。そもそも長州が京都を追われることになった禁門の政変を会津藩にもちかけたのは薩摩藩。そして、禁門の変も、当初は、様子見だったものの、長州を借り尽くすと決意し、長州追討の朝命を出すように猛烈に働きかけたし、戦果を誇り、焼き討ちだってしていたというのに・・・。そして、さりげなく、長州の仇敵・会津藩を落として、自分たちは会津と違うアピール。捕虜を丁寧に扱っていたのも、こういうことに利用するためだったのなら、先を読んでますね。禁門の変直後、勝海舟が、「薩は形勢を明察し、機会に乗ずる、天下第一」といってたのは本当だな〜とつくづく思います。 参考:「吉川経幹周旋記」(綱要DB 9月30日条 No100-104)(2018/9/2) |